
刑場跡・歴史
東京には、今も「処刑場の跡」のそばを電車が走っている。
東京・南千住。JR常磐線、東京メトロ日比谷線、つくばエクスプレスが乗り入れ、毎日多くの人が電車で行き交うこの街に、江戸時代、巨大な刑場が存在したことを知っているだろうか。その名は「小塚原刑場」。ここでは罪人の処刑、磔、獄門、そして処刑された人間の遺体を使った「腑分け」まで行われていた。現在では駅があり、住宅があり、道路があり、電車が走っている。しかし約150年前まで時間を戻すと、同じ場所にはまったく違う東京が存在する。
江戸には「刑場」があった
江戸時代、巨大都市・江戸には刑罰を執行するための場所が存在した。その代表的な場所として知られるのが鈴ヶ森刑場、そして小塚原刑場である。小塚原刑場が設けられたのは江戸時代前期、場所は現在の荒川区南千住付近――当時の江戸の中心から見れば街の外縁部だった。
なぜ、こんな場所に刑場が作られたのか。理由の一つとして考えられるのが「江戸への入口」だったことだ。江戸から北へ向かう重要な街道である日光街道を通る旅人たちは、江戸へ入るときに刑場の近くを通ることになる。そこに処刑された罪人の姿を晒す。現代人には異様に見えるが、当時、刑罰には犯罪者を罰するだけでなく、人々への警告という意味もあった。「罪を犯せば、こうなる」——江戸という巨大都市の入口に、その現実を見せる。小塚原刑場には、そんな役割もあったと考えられている。
ここで何人が死んだのか
小塚原刑場では、江戸時代から明治初期まで多くの人間が処刑された。その人数については20万人前後という数字が紹介されることもあるが、正確な人数を確定できる資料が揃っているわけではない。ここは都市伝説と史実を分けておく必要がある。「大量の人間が処刑された刑場だった」——これは事実。しかし具体的な人数については、資料によって扱いが異なる。それでも、長期間にわたって刑場として使われた場所だったことに変わりはない。
処刑だけではなかった
小塚原刑場を調べていくと、さらに奇妙な歴史にたどり着く。1771年、一人の医師がこの場所を訪れる。杉田玄白――後に日本史の教科書にも登場する人物だ。玄白たちは、あるものを見るために小塚原へ来ていた。人間の身体、「腑分け」。現在でいう人体解剖である。
当時の日本では、人体の内部構造について中国医学を基礎とした知識が広く使われていた。しかし杉田玄白らは、西洋の解剖書を持っていた。オランダ語で書かれた『ターヘル・アナトミア』。そこには人体内部の詳細な図が描かれていた。そして小塚原で実際の人体を見ると――西洋の解剖図が驚くほど正確だった。玄白たちは衝撃を受ける。「この本を、日本語にしなければならない」。そうして始まった翻訳作業が、後の『解体新書』へとつながっていく。
日本医学史の転換点は「刑場」で起きた
ここが、小塚原という場所の異様なところだ。一方では人間を処刑する場所。もう一方では、その遺体を通して日本の医学が大きく変わるきっかけとなった場所。死と科学、処刑と医学――まったく違うものが、同じ土地で交差している。もし杉田玄白たちがここで人体を見ていなければ、『解体新書』の歴史も違うものになっていたかもしれない。つまり、日本の近代医学へつながる重要な出来事の一つは、東京の刑場で起きた。
時代は江戸から明治へ。制度が変わり、都市が変わり、刑場としての役割も終わる。そして東京は巨大化していく。鉄道が通り、道路ができ、住宅が建ち、駅ができ、人々が暮らし始める。かつて刑場だった場所は、現代の東京へ飲み込まれていった。しかし痕跡まで完全に消えたわけではない。
回向院と首切地蔵
南千住には、現在も「回向院」がある。ここには小塚原刑場で亡くなった人々を供養してきた歴史が残る。そして境内には、橋本左内、吉田松陰、鼠小僧といった、名前だけなら学校の歴史や講談で聞いたことがある人物たちの墓も存在する。彼らの記憶が、この場所に集まっている。
さらにこの場所には、非常に印象的なものが残っている。「首切地蔵」――正式には延命地蔵尊。刑死した人々を供養するために建立されたとされる巨大な地蔵だ。名前だけを聞けば、まるで怪談のために作られたように感じる。しかしこれは後世のホラーコンテンツではなく、実際に刑場の歴史と結びついた供養の記憶だ。東京では、コンビニ、マンション、駅、そして刑死者を供養する地蔵が、普通の街の中に突然現れる。時間の層が、ほとんど説明なしに隣り合っている。
電車の中からは分からない
現在、南千住周辺を電車で通過しても、この歴史を感じることはほとんどない。窓の外には普通の東京が流れていく。しかし古地図を重ねると、景色が変わる。ここには刑場があった。人が処刑された。遺体が晒された。医師たちが人体を見た。そして死者を供養する寺が残った。同じ場所なのに、地図の年代を変えるだけでまったく別の東京になる。
当然、これほどの歴史を持つ場所には怪談も生まれる。夜になると人影を見る、声を聞く、奇妙な気配を感じる――そうした話が刑場跡には付きまとう。しかしそれらが本当に霊によるものなのかを確認することはできない。むしろ小塚原の場合、怪談を作る必要すらない。実際に刑場だった。実際に人が処刑された。実際に人体解剖が行われた。その事実だけで、十分に異様だからだ。
東京は「過去の上」に作られている
東京では土地の用途が何度も変わる。大名屋敷が官庁になり、川が道路になり、墓地の周辺に住宅が建ち、刑場の近くを鉄道が走る。しかし土地そのものが移動するわけではない。新しい東京は古い東京を消して作られたように見えるが、実際にはその上に重ねられている。だから少し調べるだけで、足元から過去が出てくる。
もし南千住を訪れることがあれば、一度だけ、現在の街を見たあとに古い地図を見てほしい。約150年前、そこには今とは違う場所がある。小塚原刑場。そこにいた人間は、もう誰もいない。刑場もない。江戸もない。しかし回向院は残っている。供養の記憶も残っている。そしてそのすぐ近くを、今日も電車が走っていく。車内にいる人のほとんどは、その窓の向こうにかつて何があったのかを知らないまま、次の駅を待つ。東京では、過去は消えるのではない。新しい街が、その上を通過していくのだ。


