
歴史ミステリー
総理大臣が暮らす家には、「幽霊」が出ると言われている。
東京・永田町。国会議事堂のすぐ近く、日本の政治の中心に一つの古い建物がある。首相公邸。内閣総理大臣が生活するための場所だ。24時間警備されている、日本でも最も安全な場所の一つと言っていい。しかしこの建物には、昔から奇妙な噂がある。「幽霊が出る」。しかも、ただのネット都市伝説ではない。この話は、ついに国会まで動かした。政府が「幽霊」について正式に答えることになったのである。
首相公邸は、普通の家ではない
現在の首相公邸は、もともと総理大臣が仕事をする「首相官邸」として使われていた建物だ。完成したのは1929年、約100年前。現在の官邸が完成した後、旧官邸は移動・改修され、2005年から首相公邸として使用されている。総理大臣が暮らす場所。しかし、この建物が見てきたものは、華やかな政治だけではない。日本近代史でも、特に血なまぐさい事件を経験している。
1932年5月15日、首相官邸に武装した青年将校らが侵入した。五・一五事件。狙われたのは当時の総理大臣・犬養毅。犬養は官邸内で銃撃され、死亡した。つまり現在、総理大臣の生活の場として使われている建物は、かつて現職の総理大臣が襲撃された場所でもある。しかし、それだけではない。
4年後、再び官邸が襲われる
1936年2月26日、東京に雪が降った。その早朝、陸軍の青年将校らが部隊を率いて、東京の中枢を襲撃した。二・二六事件。約1400人の兵士が参加した、日本史上最大級のクーデター未遂事件だ。永田町、霞が関、赤坂――現在、政治家や官僚が歩いている東京の中心部が、武装した兵士によって占拠された。そして首相官邸も襲撃された。標的は当時の総理大臣・岡田啓介。兵士たちは官邸へ突入する。しかし、ここで奇妙なことが起きる。
反乱部隊は、一人の男性を見つけ、総理大臣だと判断し殺害した。しかしその人物は岡田首相ではなかった。首相の義弟で秘書官だった松尾伝蔵。顔が似ていたため、兵士たちは岡田首相本人だと思い込んだ。その間、本物の岡田首相は官邸内部に隠れており、生き延びる。つまり現在の首相公邸では、総理大臣と間違えられた人物が、実際に殺害されている。
そして「幽霊」の噂が生まれる
五・一五事件、二・二六事件――二度にわたり、日本政治を揺るがす襲撃事件の舞台となった建物。やがて奇妙な話が語られるようになる。夜になると軍服姿の男を見る。誰もいない場所から足音が聞こえる。兵士のような人影が現れる。そんな「幽霊」の噂だ。もちろん幽霊が実際に確認されたわけではない。しかしこの建物の場合、怪談の背景にある事件そのものは実在する。ここが、普通の心霊スポットとは違う。
さらに噂は大きくなっていく。歴代総理大臣やその家族、官邸職員、警備関係者――そうした人々が奇妙な体験をした、という話まで語られるようになった。ただし、後世に広まった話の中には、本人の一次証言を確認できないものもある。どこまでが実際の証言で、どこからが政治怪談なのか、曖昧なものも多い。しかし噂は、とうとう政府が無視できない場所まで行く。
国会に入った都市伝説
2013年、安倍晋三首相が首相公邸へなかなか入居しないことが話題になった。すると、ある疑問が出てくる。「もしかして、幽霊が出るから住まないのではないか」。普通なら週刊誌やネットで終わる話だ。ところが、国会議員が政府に正式な質問を提出した。質問主意書――政府に答弁を求める正式な手続きだ。内容は、首相公邸の幽霊について。都市伝説が、日本の国会に入ってしまった。
政府は答弁書を作成し、閣議決定した。日本政府が、首相公邸の幽霊について正式に答えることになった。その回答は――政府として、そのような事実は「承知していない」。存在しない、とは言っていない。確認できない、とも少し違う。「承知していない」。行政文書としては当然の表現だ。しかし都市伝説として読むと、妙に余韻が残る。
なぜ、この噂は消えないのか
幽霊が本当に存在するかどうか、それを証明することはできない。しかし、首相公邸の怪談が何度も語られる理由は分かる。建物そのものが、日本政治の暴力の記憶を持っているからだ。総理大臣が銃撃された。兵士が突入した。人が殺された。クーデター未遂が起きた。そして、その建物が今も残っている。普通なら、古い歴史建築として保存されていてもおかしくない。しかしここでは違う。現在も総理大臣が生活する。歴史が終わっていない。
永田町を歩くと、見えるのは現代日本の政治だ。国会議事堂。首相官邸。議員会館。警察。黒塗りの車。しかし約90年前の同じ場所を想像すると、景色はまったく違う。雪。兵士。銃。占拠された道路。そして襲撃された官邸。現在の政治都市は、その上に作られている。
日本で最も警備された「心霊スポット」
考えてみると、首相公邸はかなり奇妙な場所だ。一般人は自由に入ることができない。24時間、厳重に警備されている。日本の最高権力者が暮らすための場所。にもかかわらず、そこで語られているのは軍服姿の幽霊。普通の心霊スポットなら、誰かが夜中に確かめに行くだろう。しかしここではそれができない。だから噂を確かめることも難しい。
もしかすると、この話で本当に怖いのは幽霊ではないのかもしれない。約90年前、日本の首都で武装した兵士たちが政治の中枢を襲った。総理大臣が狙われた。人が殺された。そして、その現場となった建物が、今も東京の中心に残っている。私たちは二・二六事件を歴史の教科書で読む。しかし事件が起きた場所は、消えていない。そこにある。今も、総理大臣が暮らしている。
その内部で、本当に軍服姿の人間が現れるのか。足音が聞こえるのか。それは分からない。政府も「承知していない」。ただ、もし幽霊というものが、強烈な出来事が起きた場所に残るものだとしたら――東京で、ここほど条件の揃った建物も、そう多くない。総理大臣が暮らす家には「幽霊」が出ると言われている。そしてその噂について、日本政府は一度、正式に答えている。「承知していない」。否定でも肯定でもない。東京の政治の中心には、今もそんな答えだけが残っている。


